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古九谷写 | 明末五彩磁写 | 茶陶吉崎英治の世界
 

古九谷写

●古九谷に魅せられて  
今日、古九谷と呼ばれ長きに亘り人々を魅了し続けてきた日本で最初期の色絵磁器はその産地について、九谷説、伊万里説がそれぞれの論を展開してきたが、1970年以降の九谷、 有田双方における窯跡の発掘調査や史料の科学的分析法の進歩により、現在では伊万里説に議論が 収斂しつつあるようである。しかし未だ謎は多く、古九谷の全体像が解明されたわけではない。

そもそも古九谷という名称が最初に使われたのは江戸末の加賀の地であった。1800年代に入り、 再興九谷の色絵を焼く窯が金沢や南加賀に続々と誕生していた時代に、それまで加賀地方や周辺に伝来 していた国産の色絵磁器を区別する意味で古九谷としたのが始まりだったようである。そしてその 背景には1650年代に大聖寺藩が築窯し、いつしか廃窯になった九谷窯で焼かれたものがそうした伝来品だと多くの人が信じていたということがあったのではないだろうか。
事実、吉田屋窯などは思慕のあまり、わざわざ辺鄙な九谷古窯の隣に最初の窯を築いている。
さすがに不便すぎたため、 1年余りで窯を山代温泉のほうに移しているが、吉田屋が目指したものは古九谷の中でも青手と呼ばれる塗り埋め様式であった。
吉田屋の関係者が青手のみを古九谷と考えていたのかどうかは知る由もないが、 この窯が再現した青手様式は、8年程で吉田屋窯が廃絶した後も松山窯などによって受け継がれていく。
更に明治以降になると青手だけではなく、五彩手も含めて古作の再現を試みる作家たちが出て認知が 進むようになり、やがてはジャパンクタニの名で一世を風靡した輸出用の金彩絵付全盛の時代にあってさえ、否、そうした時代にあったからこそ、あえて気概をもって古九谷の美を求め切磋琢磨し、独自の技を追及することで各々の古九谷写の世界を確立していった人々が現れるようになる。
このような努力の甲斐あって古九谷そのものの芸術的価値が広く共有されていき、研究も始まり、今日に至っているのである。現代九谷の作家で古九谷を通過しないで作陶する人間は殆どいないだろう。
九谷の人間にとって古九谷とは最も重要な作種であるだけでなく吉田屋以来連綿と追い求め続けてきた九谷の美の規範そのものである。古九谷と再興九谷以降の九谷とは不可分の関係にあるのだ。
こうした 歴史を顧みずに単に産地の帰属のみを語ることはできないように思うのである。

 さて、現代人である私たちは古九谷の伝世品を生活の中で使用することなどまずないだろう。
しかし、 器面の磨耗が物語るように、いかなる名品といえどこれらは実際に使用された器たちである。 神人共食という考えが深く根付き、多くのしきたりや決め事に満ちた時代の人々がハレの席の饗応で使ったであろう新作の器たち。窯から引き出されたばかりの色絵はつややかな光沢を放ち煌いているものである。谷崎潤一郎は「陰翳礼讃」の中で灯火の下での漆器の美について述べているが、料理が盛り込まれたまばゆいばかりの色絵の大平鉢が、往時の濃密な空間に立ち現れる様もさぞかし幻想的だったに違いあるまい。こうした食器類は武家や裕福な町人たちの旺盛な需要を満たすため作られたのだろう。
当時は中国趣味が流行し、古九谷は南京焼として陶商たちが流通させていた。
しかしそれに迎合し、媚びていたのでは決してこのめくるめく焼物は生まれなかっただろう。古九谷は実に多様であり、独創的で作る喜びに溢れている。古九谷が染錦、金襴手に主役の座を譲った後、生産体制の確立とともに作業がルーティン化し、芸術性は失われていく。古九谷の消長が物語るのは、ある意味消費者と生産者の緊張関係である。貪欲に新奇なものを求めていった上流階級の人々と、それに答えるべく次々と独創的なデザインを創出した工人たち。そこに陶商の介在があったとしても古九谷という焼物にはこうした使い手と作り手の幸福で単純な関係が窺えるのである。

今、私たちが見ることのできる伝世品は大抵美術館の中に鎮座している。この白く無機質な空間は器から陰翳を剥ぎ取り、漂白してしまう。美術館という制度は展示品を権威あるものにし、ニュートラルな価値を示してくれるけれど、古い工芸品や宗教美術などにおいては、それらが本来纏っていた筈の固有の意味や奥行きを平板なものにしかねない。
ガラスケース越しに眺める伝世古九谷には誕生してから350年間の多くの人々の思いが堆積していることを忘れてはなるまい。
前述したように九谷の人間はこの古九谷という焼物に魅せられ少しでも世に伝えようと努力してきた。古作に自身の創作を重ねながら技を磨き、それぞれの世界を築いてきた名工たち。こうした人々の足跡の辿り着いた先に今がある。
時代を経てなお斬新な古九谷のデザインで復刻された煌く色絵が明るい現代の生活空間を彩っている情景を思い描きながら絵筆を走らせるとき、あの17世紀の使い手と作り手の幸福で単純な関係をよすがとして、 現代九谷という文脈の中で古九谷の美を再現できたらと願うのである。

 

古九谷における3つの様式

 

多様なデザインを持つ古九谷だが、現在は作行の特徴から祥瑞手(南京手)、五彩手、青手という 3つの様式で捉えるのが一般的である。通説に従い、古九谷は有田で焼かれたとするならば、その 制作年代は出土品の状況から、1640年代〜1670年代ということになる。
染付文様のある五彩手や祥瑞手が先行し、続いて青手が作られたと推測されるが、詳細は専門家の研究に譲り、ここでは各様式の魅力について逐一述べてみたい。

祥瑞手(南京手)古九谷

古九谷のうちでも親しみやすく、チャーミングな表情を見せる祥瑞手は、染付と色絵の組み合わせが特徴であり、題材は花鳥、動物、人物など様々である。茶席で使われたであろう小皿類も多く、明末の景徳鎮に焼かせた色絵祥瑞の流れが窺える。
やわらかい染付のブルーを施された白磁が色絵の紅やつややかな色彩と見事に調和し、一体となって、色絵祥瑞にはない日本的な世界を表現している。

 

五彩手古九谷

平鉢類の裏面には染付文様が描かれたり、器面に染付の輪線が施されたものも少なくないが、その主役は何と言っても美しい五彩の色絵である。中国の芙蓉手の構図を基本としながら、日本的な要素を加え発展させた作品が多く、世界で最も絵画性が強調された焼物といえよう。
相当の技量を持つ画工が描いたと考えてよく、卓抜な筆致で主題を表現しきっている。デコラティブな装飾が窓絵を取り巻き、一体となって絢爛豪華な作品世界を創り上げている。
幾何学模様や百花手と呼ばれる緻密な花唐草の意匠など、実に多種多様だが、どれもが詩情にあふれ深い余韻を感じさせてくれる。
ここに色絵磁器が到達した最高の姿を見ることができる。

 
 

青手古九谷

黄と緑の強烈な色彩の対比と、力強く確かな筆捌きで描かれた主題や地紋が渾然一体となって見る者を圧倒するかのような青手古九谷。主題の輪郭が画面を区画し、その隙間を地紋で執拗に埋めていき、全体を色絵具で余白なく覆い尽くす。
錦窯で焼かれた器は深々とした色合いを呈し、きらきらと煌いている。350年の年月を経て落ち着いた雰囲気のある伝世品も、完成直後はこのようにまばゆい焼物だったのだろう。
色絵を焼く人間にとっては、時に素地と加飾の間の微妙な距離感が 気になることがあるが(白いキャンバスに向かい油絵を描く際に余白を残すような居心地の悪さ)、画面を塗り埋めることでそうした違和感は払拭され、器の造形と一体となった焼物を作ることができる。この意味でも青手の出現は色絵陶磁史上、エポックメイキングな出来事だったと言えるだろう。
ダイナミックで強烈な感覚を放射させながら、それでいて深淵を感じさせるような青手古九谷の大画面の雄大さは、到底吉田屋などが及ぶものではない。
この素晴らしい青手古九谷が実は単純な色のコンポジションに還元しうるような明快さで成立していることに驚きを禁じ得ない。 現代美術に通じるとも言われる所以であろう。

 
 
       
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