白い焼物の素地の上に赤や黄、緑などさまざまな上絵具で文様を描いて摂氏800度以下の低温で焼き付ける五彩(色絵や赤絵とも言う)は河北の磁州窯で金代に焼かれた宋赤絵が最初とされている。
その多くは碗や小壺といった小型の器に速い筆致で簡略な花鳥などを赤描きし、緑や黄で彩った素朴なものであったが、明代に入るとこの技法による焼物は飛躍的な発展を見せる。16世紀後半には美しい白磁のボディに彩画した景徳鎮の五彩磁や南部の民窯で焼かれた呉州赤絵などが、多くの染付磁器と共に日本に輸入され人気を博した。やがて17世紀に入り茶道の流行と共に日本人の美意識を反映した高度な作品が求められるようになり、景徳鎮の民窯に対して様々なデザインの品が発注されるようになる。茶方で名高い古染付や祥瑞がそれであり、天啓赤絵、色絵祥瑞、南京赤絵といった色絵磁器も同様であった。こうした陶磁を発注した人物の一人として小堀遠州の存在があると言われている。遠州は茶の湯を通じて加賀前田家との交流があり、近年発掘された東京大学構内の加賀藩邸跡からの出土品に祥瑞や古染付、色絵祥瑞の最高レベルのものが多くあったことからも、遠州が前田家の茶道具購入に深く関与していたことが推察される。当時最高の茶人であった遠州がコーディネートした品々は彼の究極の美意識によって成立していた。例えば古染付や祥瑞の歪んだ形や極端にデフォルメされた意匠はそのまま桃山後期の茶陶と共通するものであり、遠州の発注したような最上のものではなかったにせよ、そうした輸入陶磁を範として、いわば間接的に茶匠たちの好みを反映した形で古九谷が成立していった過程は興味深い。
さて、江戸時代後期になると文人趣味の流行を背景に、京都の富裕な質屋の主人、奥田頴川が呉州赤絵や古染付に倣った中国風の磁器を作り始め、門人の青木木米や仁阿弥道八、永楽保全たちがそうした作風を受け継ぎ、発展させていくようになる。青木木米は金沢に招かれ、1807年春日山窯を開始して、中国風の作品を作っている。また永楽保全の子、永楽和全は大聖寺藩の招聘により、1865年から6年間山代温泉で作陶し、九谷の地でも中国陶磁に倣った作風が定着していく。近年では、北大路魯山人が明末赤絵写の優品を数多く遺しているし、現代の京焼に於いても頴川以降の伝統を守り、明末五彩磁が重要な作種の一つとなっているのは周知の通りである。
当東山窯では多くの日本人に親しまれ、愛されてきたこの色絵を古九谷との関連の中でもう一度捉えなおし、現代九谷の技法で再現し、世に問うものであり、諸賢の批判を乞うところである。 |